• 検索結果がありません。

浦添市文化財調査報告書 | 浦添市

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "浦添市文化財調査報告書 | 浦添市"

Copied!
88
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

浦添市文化財調査研究報告書第31集

牧港岩山の宜野湾ノロ墓

− 一

般国道58号宜野湾バイパス事業に伴う緊急発掘

調査 −

沖縄県浦添市教育委員会

(2)

▲ 戦前の牧港岩山の様子 昭和 7 年 撮影/津留泰一  熊本県立図書館所蔵

〈牧港岩山の名称について〉

 沖縄本島中部から那覇方面へ国道 58 号線を南下すると、浦添市牧港にさしかったところで、右手に石

灰岩の小丘が見えます。この小丘は牧港を通る人々の目に留まり、風光明媚な場所として絵に描かれ、

写真に撮られています。

 この小丘は、地元(牧港)では 上 野 原 毛 と呼ばれ、戦前まで、三角形状に海に向かって延びる丘陵でウエ ノ バル モー した。丘陵の頂部は、船で旅をする人の見送りの場所になっていました。しかし、戦後の開発によって

丘陵の大半が消失してしまい、現在はその一角が残っています。

 本市教育委員会では、今回の調査を実施するにあたり、調査地の地名「牧港」と石灰岩からなる小丘

(3)

序  文

 本報告書は内閣府沖縄総合事務局南部国道事務所の「一般国道 58 号宜野湾バイパス事業」に伴う牧港

岩山の宜野湾ノロ墓の緊急発掘調査の内容を収録したものです。

 宜野湾ノロ墓は通称、「牧港岩山」と呼ばれる石灰岩丘陵の崖中腹から崖下に分布します。牧港岩山一

帯は風光明媚な風景であったことから、1853年に来琉したペリー提督の随行画家ハイネの絵をはじめ、

戦前(明治∼昭和初期)の絵図や写真が多く残されています。これらの絵や写真からは3基の古墓が確

認できますが、墓の上部の大半は沖縄戦で消失してしまいました。また、墓の所有者についても不明で

したが、宜野湾市教育委員会の御教示により、同区域内に宜野湾ノロ墓が所在し、関係者もいることが

わかりました。

 今回の調査は、発掘調査に加え、宜野湾ノロ関係者や地域の古老からの聞き取り調査、戦前の写真資

料等を手掛かりに調査・分析を行い、これまで分からなかった宜野湾ノロ墓の規模や構造などの一端を

明らかにすることができました。

 ところで、牧港岩山は、戦後の開発によって丘陵の大半を消失してしまいましたが、古墓が所在した

一角は、戦前の絵や写真にみられる特徴を現在までよく残しており、牧港のランドマークとして広く知

られていました。また、丘陵の崖面には海蝕作用によって形成されたノッチが明瞭に残り、地質観察の

学習の場としても県内では数少ない貴重な場所として利用されてきました。

 本教育委員会としても、このような文化遺産を可能な限り、現状保存すべく検討を重ねてきましたが、

広面積の土地買上費や岩山保全の安全上の問題、計画道路の構造、地形の関係上その調整がきわめて困

難であり、やむを得ず記録保存の措置をとることとなった次第です。なお、牧港岩山から切り取られた

岩塊の一部は、牧港小学校関係者の要望と南部国道事務所の御配慮により、同校庭に牧港のモニュメン

トとして保存されることになりました。

 今後は、本報告書が多方面に活用され、学術研究及び文化財愛護思想の高揚ならびに近隣における諸

開発計画の協議調整等に資することを期待します。

 最後に、今調査を実施するにあたり指導・助言を賜りました諸先生方に対し、厚く御礼申し上げます。

また、工事主体であります内閣府沖縄総合事務局南部国道事務所の御理解と御協力により、多くの成果

を上げることが出来ました。記して感謝申し上げます。

平成 13 年3月

      浦添市教育委員会     

(4)

例  言

1 本報告書は牧港岩山に所在する宜野湾ノロ墓ほか横穴跡8基の発掘調査成果及び、聞き取り調査等

をまとめたものである。また、牧港岩山をとりまく周辺の歴史的環境も視野に入れて報告すべく、戦

前から現在に至る移り変わりの様子を絵や地図、写真等を用いてまとめた。

2 発掘調査は一般国道 58 号宜野湾バイパス事業に伴うもので、浦添市教育委員会が内閣府沖縄総合

事務局南部国道事務所から依頼を受けて実施した。

3 本書に掲載の地図は、国土地理院長の承認を得て、同院の発行の 2 万 5 千分の 1 地形図及び空中写

真を使用したものである。( 承認番号 平 12 沖複、第 56 号 )

 また、内閣府沖縄総合事務局南部国道事務所所蔵 (500 分の 1 図 )、浦添市立図書館沖縄学研究室所

蔵の米陸軍工兵隊作製地図 (4,800 分の 1 図 )、浦添市資産税課及び浦添市城間自治会所蔵空中写真等

についても、各所の承認を得て複製し、調整して使用したものである。

4 本報告書の執筆、編集は安和吉則が行った。

5 発掘調査及び本報告書の作成にあたっては、次の方々から指導・助言、聞き取り調査、写真資料提

供に協力をいただいた。記して感謝申し上げます。

指導・助言 石田 肇、土肥直美、譜久嶺忠彦(琉球大学医学部)

大城逸朗(沖縄県立教育センター)

町田宗博(琉球大学法文学部)

仲田栄二(沖縄国際大学)

宮城利旭、比嘉良盛、比嘉清和(沖縄市立郷土博物館)

呉屋義勝、高江洲敦子(宜野湾市教育委員会)

玉木順彦(北谷町教育委員会)

山里奈美(西原町教育委員会)

長間安彦(浦添市立図書館沖縄学研究室)

渡慶次喜貞、渡慶次信子(宜野湾ノロ関係者)

浦添市牧港自治会、浦添市城間自治会、宜野湾市宇地泊自治会

話   者 宮里正光(大正9年生)   仲村義一(大正 6 年生) 以上 宜野湾市宇地泊

又吉蒲戸(明治 45 年生) 又吉カマド(大正 4 年生)

又吉栄亀(大正 5 年生)  又吉ウシ(大正 6 年生)

又吉盛秀(大正 9 年生) 比嘉政長(大正 15 年生)

仲座千代(大正 10 年生) 小橋川正雄(大正 10 年生)以上 浦添市牧港

(5)

目  次

序文(教育長あいさつ) 例言

第1章 はじめに ……… 1

第1節 調査に至る経緯 ……… 1 第2節 調査体制 ……… 2

第2章 位置と環境 ……… 3

第1節 位置と環境 ……… 4 第2節 牧港の歴史的環境 ……… 6 第3節 牧港岩山一帯の歴史的環境 ……… 6

第3章 調査の経過 ……… 8

第4章 調査の成果 ……… 9

第1節 発掘調査成果 ……… 9

1.3号墓 ……… 9

2.9号横穴跡 ……… 15

3.その他の横穴跡(掘り込み跡) ……… 15

第2節 宜野湾ノロ墓出土人骨について ……… 17

第3節 聞き取り調査成果 ……… 19

1.宜野湾ノロ墓 ……… 19

2.牧港岩山 ……… 20

第5章 まとめ ……… 22

写真図版1 発掘調査風景・出土遺物 ……… 27

写真図版2 牧港の岩山関係写真・絵図資料 ……… 42

      牧港岩山の地質・植生について ……… 73

牧港岩山の採石資料について ……… 78

牧港岩山関係写真・絵図資料一覧表(1) ……… 79

牧港岩山関係写真・絵図資料一覧表(2) ……… 80      

(6)
(7)

第 1 章 はじめに

第 1 節 調査に至る経緯

 この牧港岩山の宜野湾ノロ墓の発掘調査は、一般国道58号宜野湾バイパス線の道路改良工事に先立つ

ものである。経緯は次のとおりである。

1) 平成 11 年 12 月 16 日付け、沖縄開発庁総合事務局南部国道事務所長から浦添市教育委員会教育

長あて、一般国道 58 号宜野湾バイパス事業区域における埋蔵文化財有無の照会があった。

2) 平成 12 年 2 月に現地を踏査し、人為的な横穴(掘り込み)跡9基を確認した。また、戦前の絵

や写真から、同区域に古墓を3基確認した。

3) 平成 12 年 2 月末に、宜野湾市教育委員会の情報により、同区域には宜野湾ノロの墓が所在した

ことがわかった。

4) 平成 12 年 2 月 28 日付け浦教文第 171 号で、教育長から沖縄開発庁総合事務局南部国道事務所

長へ、同区域内に埋蔵文化財があること、開発前に文化財保護法の手続きと発掘調査を要すること、

発掘調査の予算措置を要することを回答した。

5) 平成 12 年 3 月に双方調整を行い、平成 12 年 3 月 8 日付け浦教文第 171 号で、教育長から南部

国道事務所嘉手納国道出張所長へ、平成 12 年度の本発掘調査に先立ち埋蔵文化財の範囲を確定する

ため試掘調査の実施について協力依頼の文書を送付した。

6) 嘉手納国道出張所長から調査の快諾を得て、平成 12 年 3 月 22 日∼ 3 月 28 日の期間で調査を実

施した。

7) 平成 12 年 3 月中頃から 4 月初頭で双方調整を重ね、4 月中頃から 6 月中頃まで約二ヶ月間の発

掘調査を実施し、平成 12 年度内で調査報告書まで刊行することとした。

8) 平成 12 年 4 月 18 日に本件に関する委託契約書で、履行期限を平成 12 年 4 月 19 日∼平成 13

年 3 月 30 日の契約を締結した。

9) 平成 12 年 4 月 18 日付け浦教文第 15 号で、沖縄県教育委員会あて埋蔵文化財発掘調査の通知を

提出した。

10) 平成 12 年 4 月 26 日付け、 沖縄県教育委員会教育長から工事着手前に発掘調査を実施すること、

(8)

第 2 節 調査体制

 本件に関する契約事務及び発掘調査等は受託者の浦添市教育委員会が行った。調査の体制は下記のと

おりである。

調 査 主 体  浦添市教育委員会  教 育 長  福 山 朝 秀(平成 11 年度)

       〃       〃     宮 城  清(平成 12 年度)

事 業 所 管   教  育   部  部   長  銘 苅 紹 夫

事 業 総 括  教 育 部 文 化 課   課    長   安 里  進

事 業 調 整     〃     文化財係長   下 地 安 広

事 業 事 務     〃     文 化 財 係   村 山 み き 

調 査 員     〃     文 化 財 係   安 和 吉 則

発掘作業員  浦添市シルバー人材センターから派遣

整理作業員  新城貴之、島袋盛広

調査協力者  佐伯信之、北條真子、斎藤真吾、島袋 貴(以上、文化課文化財係)

(9)

第 2 章 位置と環境

第 1 節 位置と環境

 浦添市は、県都那覇市の北側に位置し、東側に西原町、北側に宜野湾市が隣接している。西側は東

中国海に面しており、遠くには慶良間諸島を望むことができる。市域は東西 8.4km、南北 4.6km で総

面積は約 19km2である。

 宜野湾ノロ墓は、市の北西に位置する字牧港小字上野原にある通称「牧港岩山」と称される小丘に

所在している。牧港岩山は標高約 25 m程で琉球石灰岩を基盤としている。また、牧港は総面積約

1.6km2 で 12 の小字からなり、北東側は宜野湾市宇地泊と接し、比屋良川と牧港川の二支流で市境を

なしている註1

 戦前の牧港岩山は、平面観が北を頂点とした三角形状に延びる独立丘陵を形成し、その頂部には松

林が生い茂っていた。また、丘陵には大きな亀裂が認められ、病気の豚や家畜等を捨てた場所だった

ことから、地元では「ウァグァーバンタ」と呼ばれた。宜野湾ノロ墓は、この丘陵の崖中腹∼崖下の

海蝕作用(=ノッチ)で窪んだ所に所在した。

現在、牧港岩山の南側は国道 58 号線が、北側には宜野湾バイパス線が走り、西側から東側は住宅や

工場、北西側は埋め立てによって牧港自動車学校や住宅、漁港が所在している。また、丘陵の頂部は、

教会建設を経て、駐車場となっている。こうした戦後の諸開発によって、丘陵の南側大半が失われ、

戦前に比べ約5mも盛土造成されてしまったが、辛うじて、ウァグァーバンタや古墓が所在した丘陵

の一角が残っている。

伊平屋島 与論島 伊是名島

伊江島

沖縄本島 浦添市

0 50

浦 添 市

浦 添 市

牧港岩山の宜野湾ノロ墓 牧港岩山の宜野湾ノロ墓

牧港岩山の宜野湾ノロ墓

0 1500m

(10)

−4−

100m 0

宜野湾ノロ墓 宜野湾ノロ墓 牧港岩山 牧港岩山

宜野湾ノロ墓 牧港岩山

牧港橋碑 牧港橋碑

牧港貝塚 牧港貝塚

牧港遺跡 牧港遺跡 牧港の殿

牧港の殿

牧 港 橋 牧 港 橋

石 敢 当 跡 石 敢 当 跡

牧港橋碑

牧港貝塚 牧港遺跡 牧港の殿

テラブのガマ テラブのガマ

牧 港 橋

石 敢 当 跡

テラブのガマ

2

(11)

0 S=1/500 50m

M.N

(12)

第 2 節 牧港の歴史的環境

かつて牧港は天然良好の港湾を有し栄えたといわれ、古くは為朝伝説に「マチナト」の由来などがあ

り、度々、沖縄の歴史舞台に登場した重要な地域の一つとして位置づけされてきた。また、「牧港」の

地名については、近世琉球期の文献資料等 註2 に『喜安日記』(1621 ∼ 40 年)に「真比湊」、『絵図郷

村帳』(1646 年) に「まきミなと村」、『琉球国由来記』(1713 年)に「牧湊村」と記されている。

 戦前まで集落の中心地は小字牧港原(現在の国道 58 号線が横断する付近)であったが、戦後は、軍

道一号線建設で接収され、現在の小字桃原に移動して新集落を形成している。

 牧港の埋蔵文化財及び包蔵地 註3 は、牧港貝塚や牧港第二貝塚、牧港伊礼原遺跡(沖縄貝塚時代後 期)、牧港遺跡(グスク時代∼近代)、牧港上野原古墓群(近世)などが確認されている。

第 3 節 牧港岩山一帯の歴史的環境

 戦前の牧港岩山一帯は土地利用図註4によると、大半は畑地と墓地で、牧港橋や軽便鉄道が走る交通の要路

であった。

 牧港橋は、中国の駄背橋形式を取り入れた七座を有する橋で牧港と宇地泊の間に注ぐ牧港川と比屋

良川に架橋された。橋の築造年代は不明だが、『球陽』註2によると、万暦年間(1573 ∼ 1620 年)に 「牧港杠」の記述が、また、『改修牧港橋碑』(1744 年建立)註5 では、1735 年に木橋から石橋への改 修が記されている。同碑には石橋改修後の補修記録も追記されており、古くから沖縄本島中北部と南

部を結ぶ西海岸の重要路であったことがわかる。また、古墓の所在した牧港岩山や牧港橋、入江の様

子は、多くの写真や絵図資料 註6 が残されており、この地が風光明媚な景観であったことに加え、人々 の往来の多い場所であったことを証明している。これらの戦前の写真や絵図資料からは、牧港岩山の

3基の古墓が確認できる。

註1:牧港字誌編集委員会 平成7年3月 『牧港字誌』 浦添市牧港自治会

註2:浦添市史編集委員会 1981.3 『浦添市史第2巻 資料編1 浦添の文献資料』 浦添市教育委員会

註3:浦添市教育委員会 平成2年3月 『浦添市文化財悉皆調査報告書』  

   :浦添市教育委員会 昭和 55 年3月 『うらそえの文化財 −遺跡分布調査報告−』   

   :牧港伊礼原遺跡は、平成9年 11 月 17 日に沖縄銀行新事務センター増設工事中に発見され、緊急発掘調査を実施した。

註4:浦添市史編集委員会 1986.3 『浦添市史第6巻 資料編5 自然・考古・産業・歌謡』 浦添市教育委員会

註5:浦添市史編集委員会 1989.3 『浦添市史第1巻 通史編 浦添のあゆみ』 浦添市教育委員会

(13)

▲「牧港」大正 8 年測量 同 10 年 2 月 25 日発行

第 4 図 牧港測量図(S = 1/25,000)国土地理院発行

(14)

第 3 章 調査の経過

 工事予定地内には、人為的に掘り込まれた横穴跡が9基所在した。これら横穴跡のいずれかは、戦前

の絵や写真にみられる3基の古墓の可能性があった。調査の便宜上、9基の横穴跡を、南側から北側に順

に1∼9号の番号を付して調査に取りかかった。

 ところで、同区域内は、第1章で先述したとおり、先に実施した試掘調査結果から、戦後、約3∼5

m盛土造成されていることがわかった。亀裂部からは沖縄産陶器や豚、鳥などの獣骨が採取された。

 発掘調査は平成 12 年 4 月 25 日から同年 6 月 19 日の期間で実施した。

 調査は、現況の写真撮影を済ませ、工事予定地内(=調査区内)の低草木の除去作業及び清掃作業か

ら着手した。清掃後、調査区内の測量を実施し、併せて、横穴跡9基の割付を行った。割付は横穴跡を

二等分するかたちで縦軸を設け、これと直角に横軸を設定した。

 発掘は、墓に伴う遺構を検出する作業が主であったが、試掘調査データによる調査区内の3∼5mの

造成土を全て掘削することが困難であったため、現況と戦前の写真・絵図資料等を比較検討し、また、

墓所有者との現地立ち会いや聞き取り調査を踏まえて墓域の可能性が高い場所を選定し、三ヶ所でトレ

ンチ掘りを行うこととした。その際、トレンチ調査は個々で完掘し、遺構確認後、面的に広げることと

した。なお、トレンチは1・3・9号横穴跡の前面に設定し、機械掘削(バックホウ)及び人力掘削で造

成土の除去及び遺構確認を行った。各トレンチについて以下で記述する。

 今回調査した三ヶ所のトレンチ全てにいえることだが、約3∼5mの厚く堆積した造成土を占める殆

どの土が、灰色系シルト質の粘性土であった。沖縄では一般的に「クチャ」と称される土で元来、この

場所にある土ではなく明らかに客土であった。

 はじめに、1号トレンチの発掘に着手した。トレンチは1号横穴跡の直下から東側と北側に対し、5×

3mを設定した。地表下約 1.5 mの掘削で石灰岩の岩盤に達し、岩盤は東側に約4m延びて落ち込み、

地表下約3mに達した。ここでは墓に伴う遺構や遺物は確認されなかった。

 次に、3号トレンチの発掘に着手した。同トレンチも1号トレンチ同様、3号横穴跡の直下から東側と

北側に対し、5×4mを設定した。土の堆積状況から、東側に地形がやや下っており、地表下 30 ∼ 60

の掘削で石灰岩の岩盤に達した。岩盤は東側に約3m延びて落ち込み、地表下2m程で 50 ∼ 80 大

の石灰岩の集石が確認された。また、現代遺物と混在して厨子甕の破片や人骨片等が出土した。そのた

め、トレンチを北側に拡張して遺構確認を行うこととした。3号トレンチ北側を機械掘削で拡張し、人力

掘削に入る頃、9号トレンチの掘削作業も同時に着手した。ここでは、清掃中に蔵骨器破片やキセルの雁

首、人骨片等が戦争遺物等と一括表採されたが、周辺が著しく攪乱されており、墓に伴うものと思われ

た切石が数個出土するが、遺構は確認できなかった。

今調査で、最も調査時間を費やしたのは3号トレンチであった。作業は遺構確認後にトレンチを西側に

拡張し、3号横穴跡を二分した縦軸ラインを中心に、2×2mのグリットを設定し、堆積土の除去作業、

遺物の取り上げ、遺構検出、実測、写真撮影を行った。しかし、古墓の造成状況については、検出した

(15)

第 4 章 調査の成果

第 1 節 発掘調査成果

 発掘調査した1・3・9号横穴跡の前面部トレンチのうち、3号トレンチで墓に伴う遺構が確認された。遺

構は墓室奥壁、床面、棚跡、墓庭造成の根石跡で、これらから3号横穴跡を墓跡(=3号墓)として捉えた。

1.3 号墓

(1)層序

第1層:赤色細砂層。粘質。表土。遺物は認められない。

第2層:白色粗砂層。砂質。コンクリート敷きや基礎が一部で認められる。

第3層:黄白色系細礫土層。砂質。第2層のコンクリート敷きのための造成土と思われる。

第4層 : 灰色シルト層。粘質。「クチャ」と呼ばれる土。軍道一号線建設か以後の周辺開発に伴う客

    土と 思われる。一部で黄褐色砂質土が混在。現代遺物(プ ラスチック)が出土。

第5層 : 黄色小礫土層。粘質。石灰岩基盤直上土だが、大半が攪乱される。マンガン釉甕形厨子甕

    破片や沖縄産陶器片、人骨片などが出土。石灰岩基盤が地形的に傾斜し落ち込むところで

    は、50 ∼ 80 の石灰岩の集石と混在して認められることから墓庭造成層と考えられる。

第6層 : 黒色小礫土層。珊瑚片や貝殻が混在。青磁や人骨片などが出土。当初、遺物包含層と想定

    されたが、遺物が少ないことや第5層の状況から戦前の表土面と判断された。

第7層 : 黄褐色小礫土層。珊瑚片や貝殻が多く混在する。グスク土器、貝錘などが出土。また、同

    層内では4層(層厚2∼4 程)に分層できるが、土色が異なる以外、土質はほぼ同じで、

    層厚が非常に薄いため同一層としてとらえた。同層はグスク時代から概ね戦前まで段階的

    に形成される表土層と判断された。

 なお、調査終盤にトレンチ内の一部を更に掘り下げたが地山は確認できなかった。また、遺構や遺

物も第7層の下層からは確認できなかった。

(2)墓の構造

 墓室、墓庭ともに基盤石灰岩まで戦後の造成で攪乱されており、確認できる根石部分と床面から墓

域の復元プランを試みると、平面形態は長辺約 4.5 m、短辺約3mの長方形状を呈する。

 奥壁及び棚跡、床面は全体的に細かいノミ痕を残し、丁寧に加工される。奥壁直下には高さ 10 程

の浅い棚の立ち上がりが認められた。棚の上面がほぼ水平に加工されていることから石積みによる棚

の構築が想定された。床面は奥壁に対し東側(墓口側)に 270 を測る。また、中央棚の北側(奥壁

に向かって右側)でも、僅かに壁面が立ち上がるため、棚が想定された。一方、南側(奥壁に向かっ

て左側)では同様の痕跡は無いが、地形や空間的制限が無い限り、左右対称に棚を構築した可能性が

高いと思われた。墓室床面の標高は約5m。

 奥壁の上端部には、「L」字状の取っかかりが認められた。位置的に屋根の裏側部にあたることから、

屋根の先端部を乗せるためのものと思われ、破風墓の可能性が高いと判断された。

 墓室前面部の約 2.5 m下では、墓庭造成時の根石跡と思われる石灰岩の集石が出土した。集石は長径 50 ∼ 80

で角は丸く上面がやや平坦面を保つ。墓室は基盤石灰岩に造られるが、基盤の地形的な落ち込みで墓庭のス

(16)

−1

0−

2m

0 S=1/50

M .N

墓庭造成の 根石跡

墓室床面

棚?

う え お か

1

2

3

4

5

3

号墓平面図

(17)

第2層 第1層

第5層

第3層

第4層a

第4層b

第5層 第5層

0 S=1/50 2m EL.=5.000m

EL.=5.000m

第6層 第7層

(18)

(3)出土遺物

 出土遺物は、いずれも明確な遺構に伴うものはないが、客土(盛土造成)層下の石灰岩基盤直上か

ら出土したものや戦前の表土面及びその下層から出土したものである。なお、戦中以降及び近現代の

遺物は割愛した。   

 第7図1は白磁外反碗の底部破片資料で、高台径は 6.5 を測る。素地は灰白色の粗粒子で内外面

に薄い透明釉を施し、高台脇から露胎となる。釉色は淡灰白色。内底に印花文と一条の圏線が認めら

れる。え−3、 6層出土。

 2・3・5は青磁の破片資料である。2は、杯の口縁から腰部にかけての破片資料である。素地は淡灰

白色の微粒子で、内外面に薄い透明釉が施される。釉色は淡緑色を呈する。内外面ともに細かい貫入

が走り、口縁部から腰部にかけて箆削りによるやや不明瞭な沈線が認められる。え−3、 6層出土。3

は、盤の鍔部(口縁部∼腰部)の破片資料である。素地は白色にやや黄色掛かる緻密な微粒子で、内

外面とも厚い透明釉が施される。釉色は淡い緑色でガラス質状の発色を呈する。鍔を平坦に仕上げた

稜花盤で内体面に幅広の篦で蓮弁文を描く。え−3、 6層出土。5は、無鎬蓮弁文碗の底部から腰部に

かけての破片資料で、高台径 4.6 を測る。素地はやや黄色がかる淡灰色の微粒子で、内外面にやや

厚い透明釉が施され、畳付は露胎となる。釉色はオリーブ色を呈する。内底面に弱い一条の圏線が認

められる。え−3、 6層出土。

 4は、緑釉陶器の破片資料で水注の口縁部と思われる。素地はやや黄色味を帯びる白色微粒子で、口

唇部の約 1/2 外面に緑釉を施す。口唇部内面は露胎となるが、二次的な焼成のためか口唇部の約 2/3

が黒色を帯びている。施釉部に粗い貫入が認められる。お−1、4層出土。

 6は、青銅製の切羽で、長径 4.5 、短径 2.3 、厚さ約 1.5 を測る。重量は約 11.5 g。え−3、6層出土。

 7は、寛永通宝で、直径 2.5 、厚さ 0.1 を測る。重量は約 4.3 g。裏面に文字は見られない。え

−3、6層出土。

 8は、マンガン釉甕形厨子甕の蓋(鍔部)の破片資料である。推定外径 28.6 、内径 22.8 を測る。

外面を回転横ナデで成形し、マンガン釉を施す。身の口縁部からずれ落ちるのを防ぐための「かえり」

が鍔部の内面下端に取り付く。か−2、4層出土。   

 第8図1∼5は有孔貝製品で、用途は錘と思われる資料である。1・2はヒメジャコで、3・4はメン

ガイ、5はリュウキュウサルボウ。いずれも内面中央の凹部から孔を穿つ。え−3、7層出土。

 6は、片状砂岩製の敲石で、長径 11.0 、短径 7.0 、厚さ 4.5 を測る。重量は 570 g。楕円形

の自然礫を素材とするもので、側面を敲打部位として使用する。えー3、5層出土。  

 PL. 7 の1・2はマンガン釉甕形厨子甕の身の胴部破片資料である。1は、外面に沈線で葉文を描き、

その下部に4条の横帯が認められる。内面の色調は泥灰色を呈する。う−1、5層出土。2は、外面に

沈線で蓮華文を描く。内面の色調は赤橙色を呈する。え−2、5層出土。両者は、内面の色調が異なる

ことから、別個体の破片資料と思われ、少なくとも2種類のマンガン釉甕形厨子甕があったと判断さ

れる。 

 PL. 8 は、グスク土器の胴部破片資料である。器種は不明。いずれも焼成は良好で硬質。色調は、

外面が暗褐色や淡橙色で、内面は橙系色である。内外面ともに、1∼2 程の石灰砂や赤色粒子を含む。

(19)

1

2

4

6

7

8 5

3

0 S=1/2 10

(20)

2 3 1

4

5

6

0 S=1/2 10

(21)

2.9 号横穴跡

 戦前の絵や写真から、同場所には並列する2基の古墓が確認できる。

 トレンチを設定し、遺構確認を実施したが、基盤石灰岩まで著しく攪乱されており、墓の規模や構

造等を窺い知る情報は全く得られなかった。

(1)遺物

 いずれも石灰岩基盤上の一括遺物で、ボージャー厨子甕破片、キセル雁首、人骨片などのほか戦中

遺物も出土した。なお、近現代、戦中遺物については割愛した。

 第9図1∼3は、ボージャー厨子甕の身の破片資料である。

 1は、口縁部から肩部の破片資料で、口径約 18.8 を測る。口縁部は丸縁で内湾し、口唇部がガラ

ス質状を呈する。重ね焼きの際、口唇部にサンゴ小石を置いて焼成した結果、サンゴ石の石灰分が溶

けてガラス質状になったと思われる。色調は、外面が 涅 色(褐色がかった黒色)、内面は 鳶 色(黒みがくり とび かった茶色)を呈する。外面の頸部横帯は3条の凹線が入り、凹線下端部には5 程の瘤状突起が認

められる。内面は回転横ナデで器面調整される。

 2は、口縁部から肩部の破片で、口径約 30.4 を測る。口縁部は丸縁で内湾する。色調は、外面が

暗茶褐色で内面は赤味がかった橙色を呈する。外面の頸部横帯は3条の凹線。内面は回転横ナデによ

る器面調整が認められる。素地は赤色系微粒子で緻密。

 3は、胴下部から底部の破片資料で、推定底径約 23.3 を測る。色調及び素地が2と同じであるた

め、両者は同一個体の可能性が高い。底部の穿孔は2ヶ所認められる。内面は回転横ナデで器面調整

される。

 4は、陶製キセルの雁首である。火皿及び羅宇接合部の断面形がほぼ8角形を呈する。素地は暗灰褐

色の緻密な微粒子で、色調は内外面とも灰褐色を呈する。火皿が全体的に大きく、成形がやや雑。器

面に篦状工具によるやや幅のある筋状の調整痕が認められる。重量は約 11 g。

 5は、金属製キセルの雁首である。火皿及び羅宇接合部の断面形がほぼ円形を呈する。錆による青銅

色を呈している。羅宇接合部から首部にかけては一枚の薄い金属板を管状にして成形している。重量

は約6g。

 6は、銭貨で、直径 2.5 、厚さ 0.1 を測る。重量は約 2.8 g。表裏面とも銅錆が著しく文字は判

読不能である。

3.その他の横穴跡(掘り込み跡)

 調査した1・2・4・5・6・7・8号横穴跡は、いずれも判然としなかった。各々を概述すると1号横

穴跡は、立面形態から墓の可能性を残しているが不明。2号横穴跡は、清掃後に石灰岩基盤の地形的な

自然の窪み部分で人為的に掘り込まれた跡ではないと判断された。

 4∼6号横穴跡は、戦前の写真でも認められており、沖縄戦以前に掘り込まれた横穴と推察される。

 7・8号横穴跡の同場所には、戦前の写真では二基墓に伴う石積みが確認できることから、戦中∼戦

(22)

1

2

3

6

4 5

0 S=1/3 10

0 S=1/2 10

(23)

第 2 節 牧港岩山の宜野湾ノロ墓出土人骨について

琉球大学医学部解剖学第1講座 

譜久嶺忠彦・土肥直美・石田 肇

 牧港岩山の宜野湾ノロ墓から出土した人骨について報告する。保存不良の骨細片がほとんどで、ま

た火葬骨のため人骨の形が変形してしまっているものも含まれていたため、詳細な個体識別は困難で

あった。

 人骨の鑑定結果を表1に示す。未成人は、未萌出を含む乳歯・永久歯の歯冠や歯根の形成程度から

BASS(1987)1)を参照し、年齢推定を行った。

引用文献

1)Bass,M.W. 1987: Human Osteology  A Laboratory and field manual,third

edition,Missouri

(24)

人 骨 所 見 出土地点

層 位 トレンチ

墓跡

性別不明成人 1 成人の中足骨や肋骨片等の少量の細片のみ。

お-1 3

No. 3 トレンチ 1

性別不明成人 1 成人の右肩甲骨片、大腿骨片、脛骨片等の少量の細片のみ。焼けた人骨含む。

え-2・3、お-3 5

成人男性 1 頭蓋骨片、左右上腕骨片、左右大腿骨片、脛骨片、左腓骨片等。焼けた人骨、獣骨含む。

え・お-1・2 5

成人男性 1 頭蓋骨片、右上腕骨片、大腿骨片、腓骨片等。焼けた人骨含む。

お-1 3

成人男性 1 左側頭骨片、右大腿骨片、左寛骨片等。焼骨・焼けた人骨含む。

お-1・2 5

性別不明成人 1 大腿骨片、右第 1 中足骨など少量の細片。ほとんどが焼けた人骨。獣骨含む。

お-1・2 3

性別不明成人 1 頭蓋骨片、左上顎第 1 大臼歯、左大腿骨片、脛骨片、腓骨片等。ほとんどが焼けた人骨。

お-1・2 3

成人男性 1、性別不 明成人 1、幼児 1 頭蓋骨片、上顎骨片、下顎骨片、左上腕骨片、右尺骨 2 片、左

右大腿骨片、脛骨片、左?腓骨片、幼児の左上顎側切歯等。ほ とんどが焼けた人骨。

お-1 5

熟∼老年女性 1 左頬骨片、左側頭骨片、下顎骨片、左右上腕骨片、肩甲骨片、

左腓骨片、右距骨片等。ほとんどが焼けた人骨。 え-2

5

性別不明成人 1 左鎖骨片、大腿骨片、腓骨片等。焼けた人骨含む。

お-1 3

成人女性 1 頭蓋骨片、左右側頭骨片、右上腕骨片、左右大腿骨片等。焼けた人骨含む。

う・え-2 5

性別不明成人 1 頭蓋骨片、大腿骨片、右脛骨片、腓骨片等。焼けた人骨含む。

お-1 ?

性別不明成人 1、幼児 1 成人の頭蓋骨片、左大腿骨片、幼児の頭蓋骨片等。ほとんどが焼けた人骨。

お-2 5

性別不明成人 1 後頭骨片、下顎骨片、左右上腕骨片、右大腿骨片、左 ? 腓骨片等。焼けた人骨、獣骨含む。

か-2 3

性別不明成人 1 大腿骨片、足根骨等の骨細片のみ。獣骨含む。

え-3 5

性別不明成人 1 長骨片などの少量の骨細片のみ。

え-3 6

性別不明成人 1 右第 3 中手骨などの少量の骨細片のみ。獣骨含む。

う-3 6

性別不明成人 1 大腿骨片、右 ? 腓骨片などの長骨片が 4 片のみ。

か-3 5

成人男性 1、性別不 明成人 1、小児 1、 幼児 1

側頭骨片、上顎骨片、下顎骨片 3、上腕骨片(右 2 左 1)、左右橈骨 片、左右肩胛骨片 2、大腿骨片、脛骨片、腓骨片、幼児の下顎骨片、 小児の左下顎犬歯・第 1 乳臼歯等。ほとんどが焼けた人骨。 か-2

5

性別不明成人 1、幼 児 1

成人の頭蓋骨片、上顎骨片、下顎骨片、左?上腕骨片、左鎖骨 片、幼児の下顎骨片等。ほとんどが焼けた人骨。

か-2 ?

性別不明成人 1、幼児 1 少量の骨細片、幼児の肋骨片等。獣骨含む。

お-3 6

性別不明成人 1 長骨片等の少量の骨細片のみ。焼けた人骨含む。

か-1 5

性別不明成人 1 肩甲骨片と長骨片のみ。

う-2 1( 西壁)

成人女性 1 左大腿骨片等。

流土一括

成人男性 1、成人女 性 1

左頬骨片、左側頭骨片、左右上腕骨片、左橈骨片、右肩甲骨片、 左膝蓋骨片、大腿骨片、左脛骨片等。焼けた人骨含む。 お-1

フイッ シャー

性別不明成人 1 腓骨 2 片のみ。

客土∼岩直上 No.2 トレンチ

性別不明成人 1 少量の骨細片のみ。

表土 No. 4(横穴)

性別不明成人 2、 幼児 1

頭蓋骨片、左頬骨片、上顎骨片、下顎骨片 2、左右肩胛骨片、左 右大腿骨片、脛骨片、右腓骨片、左距骨片、幼児の左尺骨片、 左鎖骨片、左 ? 腓骨片等。ほとんどが焼けた人骨。

岩直上 No. 9 トレンチ

2

牧港岩山の宜野湾ノロ墓出土骨の構成

(25)

第 3 節 聞き取り調査成果

(1)宜野湾ノロ墓について

 話  者:渡慶次 喜貞(屋号「 嘉 手 苅 」)明治 43 年生まれカ リ カル

      ※渡慶次喜貞氏の曾祖母と母親はノロ代理をつとめた。二人は屋号「徳山」の娘で、亡

      くなると、牧港の宜野湾ノロ墓には入らずに、徳山の墓に入った。

 調査日時:平成 12 年3月 14 日(火)14:00 ∼ 15:30

     平成 12 年3月 27 日(月)10:30 ∼ 12:00

なお、聞き取り調査の際に、聞いた話の内容で以下の区分を行った。

 ○=渡慶次喜貞氏が実際に経験した話

 ●=渡慶次喜貞氏が幼少の頃に祖父母や門中の人々から聞いた話、嘉手苅門中の伝承など

○墓はヌールバカ(=ノロ墓)と呼んだ。

●嘉手苅の娘(=ノロ)の墓で3人入っている。

●牧港に宜野湾ノロの墓があるのは、牧港橋を造る時に宜野湾ノロがなんらかの手助けをしたので、 

 牧港の人々の要望でこの場所に墓が造られた。墓を造った後も、牧港橋が修復される度に、牧港の

 人々によって墓石も新しく積み直しされた。

●宜野湾ノロが亡くなると、宜野湾∼当山∼伊祖∼牧港のノロ墓への道のりを、3日がかりで龕を担い

 で葬式を出した。

●沖縄戦の直前に、日本軍の石部隊が墓からティラ(=石製厨子甕)を出して、弾薬庫として使って

 いた。

○ノロ墓は牧港橋から西側に進んで、二番目の墓だった。戦前までは、毎年、清明祭のときに両親と

 行った。

○ノロ墓のあった場所の上には亀裂があり、大きな石が挟まっていた。

○周辺にも墓が4つくらいあったと思う。ほかの墓の所有者はわからない。清明祭のときもここに来

 るのは自分たちだけで他の人は見たことはなかった。

○戦後、墓に行くと墓の前にティラが二つあった。骨は入っていたが、ティラの蓋が無かった。

 墓には3人入っていると聞いていたがティラは二つしかなかった。墓が壊れてしまったので、1959

(26)

(2)牧港岩山一帯

 話  者:例言に記した。

 調査期間:平成 12 年3月 30 日∼同年7月 17 日

 牧港岩山崖下の墓について(名称、墓数、特徴、戦前・戦後の状況など)

・墓の所有者はわからない。墓はとても古い。数は五つ、六つくらいあったと思う。洞穴があって、

骨やジーシガーミ(=厨子甕)でいっぱいしていたのを覚えている。

(中村義一/大正6年生)  

・墓の所有者はわからない。大昔の墓と聞いたことがある。墓口の蓋を板で塞いでいたから、「 板墓 」イタバカ と呼んだ。数は二つ、三つはあったと思う。夜になると板墓の方から、三線の音が聞こえるという話

があってあまり近寄らなかった。板墓があった場所は、沖縄戦の直前に日本軍の暁部隊(=輸送部隊)

が燃料置き場として使っていたらしい。

(比嘉政長/大正 15 年生)  

・墓の所有者はわからない。戦前から大昔の墓と言っていた。墓は「板墓」と呼んでいた。墓口を板

で塞いでいたからだと思う。墓の数は一つか、二つだったと思う。

(又吉盛秀/大正9年生)  

・墓の所有者はわからない。墓への墓道は無く、護岸を歩いて行った。墓の前方は広場になっていて、

屋号「仲座」や「 蔵根 」の畑があった。奥の方に洞穴があって、白骨が見えた。近づくのも怖かった。クラニー 現在のロベルトのところにカンジャーガマと墓があって、そこにある墓を「板墓」と呼んだ。板墓に

納められていた人骨は太くて、大きいので唐人が入っているといわれていた。

現在の牧港自動車学校側に、牧港の人たちの墓があった。屋号「 松門 」と「 前 当 小 マチジョウ メーアタイグァー」の墓のほかに、 全部で五∼六つあったと思う。

(又吉蒲戸/明治 45 年生)  

・墓の所有者はわからない。周辺には墓が多かった。墓は「板墓」と呼んだ。上野原にある崖の割れ

目を「ウァグァーバンタ」 と呼んだ。 夜になると、 ウァグァーバンタの方から三線の音や人の泣き声がし

たという。 戦争直前の上野原の崖下は、 日本軍の暁部隊の燃料置き場で、 米軍上陸前に、 暁部隊が燃料を

燃やして逃げたという話を聞いた。

(又吉栄亀/大正5年生)  

・墓の数はいっぱいあったからわからない。牧港の人の墓ではない。 他島 (=他の村)の人の墓。墓タシマ は「板墓」と呼んだ。墓口を板で塞いだ石積みの墓だった。

(又吉カマド/大正4年生、又吉ウシ/大正6年生)  

・戦前まで、墓の前で畑をしていた。墓は岩を掘り込んだものやガマを利用したものがあった。墓口

を板で塞いでいたの覚えているが、墓の所有者や数はわからない。上野原の崖下の墓は、牧港の人の

墓ではないと思う。清明祭の時にも墓に来る人を見たことがなかった。

(27)

 牧港橋について(名称、戦前・戦後の状況、特徴など、改修牧港橋碑について)

・昭和 10 年頃、風もない凪の時に突然、「ドーン」 と音がして、行ってみると牧港橋が崩れていたの覚

えている。

(宮里正光/大正9年生)

・橋は「レンガ橋」と呼んだ。牧港から宇地泊に架かる最初のアーチ部分がレンガでできていた。 レン

ガになったの何時からかわからないがレンガになる以前は石でできていたという話を聞いたことがあ

る。戦前はアーチが五つあったと思う。宇地泊側の橋を「 北の橋 」と呼んだ。ニシ ヌ ハシ

碑文は宇地泊側にあった。文字が書かれていたの覚えている。戦後、 どうなったのかは不明。

(比嘉政長/大正 15 年生)

・橋は「レンガ橋」と呼んだ。牧港から宇地泊に向かって、最初にレンガ橋が一つ、 石橋が二つで、

アーチが三つあり、仲座商店、 前比嘉 の屋敷があって、そこから離れて宇地泊側に碑文があった。碑メーヒジャ 文を過ぎて、アーチが二つある「 北の橋 」があった。碑文の南側にも暗渠があった。これもアーチだっニシ ヌ ハシ たかもしれない。

私が 15 才の頃にレンガ橋が壊れて、橋の修理の仕事をした。作業員は 20 数名いた。私が一番最年

少だった。レンガ橋は修理されて、コンクリートの橋に変わった。

戦後、碑文はどうなったかわからない。トラックに乗って宇地泊で軍作業をしていたが、碑文は無かっ

たと思う。

(又吉盛秀/大正9年生)

・橋は、牧港側を「 南の橋 」、宇地泊側を「 北の橋 」 フェーヌハシ ニシ ヌ ハシ と呼んだ。昭和 10 年頃の橋工事は覚えているが、 工事には参加しなかった。牧港の人たちも何人か工事作業に出ていた。

 北の橋の近くに茅葺屋、少し離れて「仲座」、「比嘉」の屋敷があった。北の橋の南側と茅葺屋のあ

いだに碑文があった。

(又吉蒲戸/明治 45 年生)

・碑文は、現在のA&Wの入り口にあった。戦後も残っていてその場所に埋められている。

(仲村義一/大正6年生)

・橋は、「マチナト橋」とか「レンガ橋」と呼んだ。明治以前は石橋だったという。「北の橋」は宇地

泊側の橋。 北の橋のたもとに碑文があった。碑文は漢字で書かれていた。高さは1m、厚さ 10 、幅

は 60 ∼ 70 位あったと思う。碑文は戦後、軍道一号線工事で埋められたと思う。

 レンガ橋を過ぎて、仲座商店、メーヒジャグァー(=屋号「前比嘉小」)の屋敷があった。屋敷を過

ぎて北の橋があった。レンガ橋はアーチが三つ、北の橋はアーチが二つあった。仲座商店の手前側か

ら嘉数に行く道があって、50 m位進むとポンプ場があった。レンガ橋のたもとから西側は、小橋川と

仲座の畑があった。

(28)

第 5 章 まとめ

 調査した3号墓は、渡慶次喜貞氏からの聞き取り調査と現地立ち合いの結果 註)、宜野湾ノロの墓と断

定した。本章では、同ノロ墓の造営背景及び年代について、また、消失した2基の並列墓やその他の横

穴跡について、事実関係と若干の考察を加えてまとめとする。

註)渡慶次喜貞氏は、ノロ墓の上方に亀裂が有り、間に巨岩が挟まっていたことを記憶していた。この亀裂に挟まっ  た巨岩は現在まで残っており、宜野湾ノロの墓の位置が確定できた。

1.宜野湾ノロ墓の造営背景・年代

 嘉手苅門中の伝承が事実であれば、橋の築造年代をノロ墓の造営年代と捉えることができる。しか

し、牧港橋は架橋・改修の二時期に大別され、どの時期に宜野湾ノロが関与したかという問題や所轄

村(=祭祀権)の問題もある。ここでは、第4章で述べた発掘調査成果に加え、以下の事象の事実関

係を整理し、同墓の造営背景と年代を推察する。

この頃、浦添間切の一公儀ノロであった。 しかし、所轄した村名・数は不明。 ! 『おもろさうし』巻十五(1623 年)

  【うらおそいおもろのふし】一節目   「一 ぎのわんののろの 」

同巫=宜野湾ノロ

この頃、宜野湾間切の 6 ヶ村(宜野湾、伊佐、 喜友名、神山、嘉数、我如古)を所轄した。 " 『琉球国由来記』巻十四(1713 年編纂)

殿二

(キセラセノ大ヒヤ・大里の大ヒヤ) 麦稲四祭時、両所ヘ、穂三筋完(芋。 同村百姓中)シロマシ一器、

根人共レ之。同巫 ニテ祭祀也。 文献資料:宜野湾ノロ

    :牧港・宜野湾・大謝名の地名              表 2

琉球国由来記

(1713 年 ) 宜

野 湾 間 切 新 設 ( 一 六 七 一 年 ) 絵図郷村帳

(1649 年 ) おもろさうし

(1623 年 )         文 献 名

地 名(間切名)     

牧  湊 ( 浦 添 間 切 ) ま ひ ミ な と

( 浦 添 間 切 ) −

( 浦 添 間 切 )

牧  港

宜 野 湾 (宜野湾間切) 宜  湾

( 浦 添 間 切 ) ぎ の わ ん

( 浦 添 間 切 )

宜 野 湾

大 謝 名 (宜野湾間切) 大 志 ゃ な

( 浦 添 間 切 ) ち や な

( 浦 添 間 切 )

(29)

ノ ロ 制 : 琉球において本格的にノロ制が敷かれたのは、第二尚氏王統三代目の尚真王の治世で、聞得

大君を筆頭とする三十三君のノロ(=中央神女)が置かれ、王国の政治的組織に組み入れられ

た。同時に、各間切にもノロ(=公儀ノロ)が置かれ、間切内の数村の祭祀を束ねた。しかし、

17 世紀中葉∼末頃にかけて、公儀ノロの祭祀権(=所轄村)が流動的であったことが「羽地仕

置」から読みとることができる。

「羽地仕置」によると、1667 年(寛文7)に王府から公儀ノロの間切・所轄村外での祭祀を禁

止する通達が出されている。このことは、間切・村の新設が増加するこの時期に、ノロの祭祀

権が揺らいでいたことを裏付けている。この資料は、同時期の浦添間切と宜野湾間切(1671 年

設置)の間にも、同様の事態が起こりえたことを示唆している。

聞取調査:戦後、ノロ墓移転に伴い、石厨子2基(身のみ)を移葬している。この石厨子について、石

質や形態、銘書の有無などを聞き取り調査したが、年代に関連するような情報は得られなかっ

た。

出土遺物 : 3号墓の基盤直上土から釉薬の異なる二種類のマンガン釉甕形厨子甕の破片が出土した。上

述の石厨子2基を考慮すると、少なくとも4基の蔵骨器が墓に安置されていたと思われる。

 戦前の表土面から、15 世紀頃の中国産陶磁器が、また、その下層からグスク土器や有孔貝製

品が出土している。これらの遺物は、隣接する牧港遺跡(グスク時代∼近代)の出土事例と類

似することから、同遺跡の広がりが推測された。一方、県内の古墓の発掘事例をみると、墓室

から貿易陶磁が出土する事例が増加しており、これらの遺物が墓に伴う副葬品の可能性もある。

人骨分析:3号墓客土中及び旧表土直上層から断片的に出土した細片であったが、「成人男性」、「熟∼老

年女性」、「成人女性」、「小児」、「幼児」が確認された。聞き取り調査の「3人のノロ」と一致し

ないが、ノロ墓にはノロ以外の親族が葬られることもあり、画一的なことは分かっていない。

 特筆すべきは、「熟∼老年女性」、「成人女性」が確認できたことである。

写真資料:墓は、前面をあいかた積みで構築する。太陽光のあたる部分から墓庭があることが確認でき

る。また、墓庭手前側には崩落しかかった石階段が取り付いている。形態は破風墓に類似して

おり、規模は同資料と発掘成果から、 概ね 4.5 × 2.5 × 3m (幅×高×奥行)が推定される。

 同墓は、ノロが葬られる池城墓(1670 年造営:今帰仁村)と規模や性格が類似するほか、墓

を崖の中腹に造営する小禄墓(1494 年「おろく大やくもい石棺銘」:宜野湾市)や百按司墓

(30)

(1)墓の造営背景について

 1671 年以降、宜野湾間切6ヶ村を所轄した宜野湾ノロであるが、その墓が浦添間切牧港村に造営さ

れた背景には、同ノロが浦添間切時代に牧港村を所轄したことが考えられる。このことは、表3の事

例で公儀ノロの墓が所轄した村に造営されていることを理由としている。

 また、嘉手苅門中の伝承で牧港橋架橋に関与とあるが、これが事実ならば、宜野湾間切設置後、60

年余経過した 1735 年の石橋改修時の関与は、「羽地仕置」の事例や仲間ノロの所轄村であることから

も考えにくく、「球陽」に記述される木杠時代(万暦年間)の関与を想定する。

(2)墓の造営年代及び使用期間について

 墓の造営年代は、先述した造営背景を考慮して 16 世紀中葉∼ 17 世紀中葉(宜野湾間切創設以前)

と想定する。また、墓の使用期間は、聞き取り調査にある代理ノロの存在や4基の蔵骨器から、19 世

紀までと想定する。

2.その他の墓や横穴跡について

(1)並列墓(PL.30 参照)

 9号トレンチを設定した場所は、戦前まで2基の墓が並列して所在した。しかし、ここは基盤石灰岩

まで著しく攪乱されていたため、遺構は確認されなかった。遺物は、現況の基盤上から、ボージャー

厨子甕の口縁部や底部破片、キセル雁首などが一括遺物として採取された。

戦前の写真や牧港の古老等の聞き取り調査から、この2基墓について概述する。墓の形態は、宜野湾

ノロの墓同様、破風墓に類似しており、規模も概ね同等と思われる。墓庭の有無は判然としない。2基

墓のうち向かって左側の墓は、墓口を含む前面を全て石積みで構築する。両墓とも墓前方に石階段が

取り付いている。今調査では、所有者は不明であったが、昭和 50 年頃の同場所の写真(PL.51)か

ら所有者の存在を窺い知ることができる。

 特筆すべきは、墓の屋根部が長方形の長板数枚で構成されていること。造営年代は不明だが、古琉

球期若しくは近世初期に位置付けられる古式タイプの墓と想定される。

ノロ墓の所在する村 所    轄    村

ノ ロ 名 間 切 名

仲 間

仲間・安波茶・西原・伊祖・牧港・前田 仲 間

浦 添

沢 岻

沢岻・安謝・内聞 沢 岻

仲 西

勢理客・小湾・仲西 仲 西

− 饒平名・宮城・屋富祖・親富祖

饒 平 名

− 城間

城 間

牧 港

宜野湾・我如古・伊佐・嘉数・喜友名・神山 宜 野 湾

宜 野 湾 謝 名 謝名・宇地泊・真志喜・大山 宇 地 泊 野 嵩 ? 野嵩・安仁屋・普天間・新城

野 嵩

幸 地

幸地・翁長 幸 地

西 原

棚 原

棚原 棚 原

北 谷

北谷・前城・玉代勢 北 谷

北 谷

仲 宗 根 → 呉 屋 仲宗根・呉屋・諸見里・山内

仲 宗 根 越 来

知 花

知花・登川・池原 知 花

美 里

(31)

(2)沖縄戦以前の横穴跡

 4∼6号横穴跡は、! 墓造営の際に要する石材を採石した跡、" 一次葬(仮墓)のため掘り込まれた

跡、 # 牧港橋架橋または補修の際に使用する石材を採るために生じた跡などが考えられる。

 1号横穴跡は、立面形態が 3 × 8 × 0.6m(高×幅×奥行)と長方形状を呈する。戦時中あるいは戦

後の採石のためか奥行きが全くないが、規模や形態、立地条件から、今帰仁村運天の木郭墓を納める

ための掘込形態を想定する。

参考文献

牧港字誌編集委員会 平成7年3月 『牧港字誌』 浦添市牧港自治会

字仲間誌編集委員会 1991.12 『字誌なかま』 浦添市仲間自治会

沢岻字誌編集委員会 1996.5 『字誌たくし 浦添市字沢岻』 沢岻字誌編集委員会

浦添市史編集委員会 1989.3 『浦添市史第1巻 通史編 浦添のあゆみ』 浦添市教育委員会

浦添市史編集委員会 1981.3 『浦添市史第2巻 資料編1 浦添の文献資料』 浦添市教育委員会

浦添市史編集委員会 1983.3 『浦添市史第4巻 資料編3 浦添の民俗』 浦添市教育委員会

浦添市史編集委員会 1986.3 『浦添市史第6巻 資料編5 自然・考古・産業・歌謡』 浦添市教育委員会

浦添市史編集委員会 1988.3 『写真にみる浦添のあゆみ −明治から昭和 62 年−』 浦添市教育委員会

沖縄県史料編集所 1981.2 『沖縄県史料 前近代1 首里王府仕置』 沖縄県教育委員会

沖縄大百科事典刊行事務局 1983.5 『沖縄大百科辞典』 沖縄タイムス社

沖縄地域史協議会編 1989.3 『シンポジウム南島の墓 沖縄の葬制・墓制』 沖縄出版

角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和 61 年7月 『角川日本地名大辞典 47 沖縄県』 角川書店

金武正紀他 1998.3 『銘苅古墓群(。) 那覇新都心土地区画整理事業に伴う緊急発掘調査報告・』 那覇市教育委員会

金武正紀他 1999.3 『銘苅古墓群(「) 那覇新都心土地区画整理事業に伴う緊急発掘調査報告ヲ』 那覇市教育委員会

金武正紀他 2000.3 『ナーチュー毛古墓群 那覇新都心土地区画整理事業に伴う緊急発掘調査報告ァ 』 那覇市教育委員会

西原町史編纂委員会 平成元年3月 『西原町史第4巻 資料編3 西原の民俗』西原町役場

宜野湾市史編集委員会 昭和 60 年3月 『宜野湾市史第5巻 資料編4 民俗』宜野湾市役所

呉屋義勝他 1989.3 『土に埋もれた宜野湾』 宜野湾市教育委員会

呉屋義勝他 1996.3 『奥間ノロ墓 一般国道 58 号牧港立体事業に係る緊急発掘調査報告書』 宜野湾市教育委員会

安里 進 1997.3 『伊祖の入め御拝領墓の厨子甕と被葬者 近世墓の考古学的調査による家族復元』浦添市教育委員会

宮里信勇他 1999.3 『内間西原古墓群「 浦添市消防署内間出張所および都市計画道路勢理客線造成工事に伴う緊急発掘調査』

(32)
(33)
(34)

▲ 北東から 写真下側は牧港川河口

PL .1 牧港岩山の宜野湾ノロ墓遠景

(35)

PL .2 1 号横穴跡

(36)

PL .3 2 ∼ 6 号横穴跡

2 ∼ 6 号横穴跡

(37)

PL .4 3 号墓

(38)

PL .5 3 号墓

人骨出土状況

(39)

PL .6(第 7 図) 3 号墓出土遺物

   白磁:碗 (1) 青磁:小杯 (2)・盤 (3)・碗 (5) 緑釉陶器 (4) 切羽 (6) 古銭 (7) 1

5

3

2

4

6

(40)

1

2

3

(41)

1 2

3 4

5

(42)

PL .9(第 8 図) 3 号墓出土遺物 

   有孔貝製品:ヒメジャコ (1、2) メンガイ (3、4) リュウキュウサルボウ (5)

1 2

3 4

(43)

PL .10 7・8 号横穴跡

▲ 逆 「L」 字状の岩盤(写真中央)。戦前の写真でも確認できる。

(44)

PL .11 9 号横穴跡

発掘前

発掘後

(45)

PL .12(第 9 図) 9 号横穴跡出土遺物 

    蔵骨器:ボージャー厨子甕 (1 ∼ 3) キセル:陶製 (4)・青銅製 (5) 古銭 (6) 1

2

3

4 5

(46)
(47)
(48)
(49)
(50)
(51)

PL .17 遺跡一帯の空中写真 平成 7 年(1995 年)  浦添市資産税課所蔵

(52)

PL .19 「牧港の橋と堤道」1853 年 作/ハイネ  

     沖縄県立博物館所蔵『ペルリ提督日本遠征記』より      牧港橋や岩山崖下の 3 基の墓が描かれている。

PL .20 「牧港」大正 7 年 作/小杉未醒  

     沖縄県立博物館所蔵『日本風景版画』琉球之部

(53)

PL .21 「牧港」昭和 7 年 作/宮崎東里  沖縄県立博物館所蔵

     牧港岩山や入江の様子。牧港岩山の中腹に 3 基の墓を描き、墓前面の石垣部分を朱色で表      現 している。

PL .22 「牧港風景」昭和 33 年 作/山田真山  読谷村立美術館所蔵

(54)

−4

8−

PL .23 「明治時代の風俗」明治年間  琉球大学付属図書館所蔵

(55)

−4

9−

PL .24 明治末∼大正 2 年 撮影/岡田雪窓  沖縄市立郷土博物館所蔵

(56)

−5

0−

PL .25 明治末∼大正 2 年 撮影/岡田雪窓  沖縄市立郷土博物館所蔵

(57)

−5

1−

PL .26 明治末∼大正 2 年 撮影/岡田雪窓  沖縄市立郷土博物館所蔵

(58)

−5

2−

(59)

−5

3−

PL .28 「牧港」昭和 7 年 撮影/津留泰一  熊本県立図書館所蔵

(60)

−5

4−

PL .29 「牧港の墳墓」(PL .27)の部分拡大

(61)

−5

5−

PL .30 「牧港の墳墓」(PL .27)の部分拡大

(62)

PL .31 「沖縄県中頭郡宜野湾村牧港橋」昭和 9 年 田辺泰著『琉球建築』より転載

     通称、「 北の橋 」と呼ばれた宇地泊側の橋。中央の橋は、ハイネの絵 (PL.19)に見られるニシヌハシ      中国の駝背橋形式の橋。

PL .32 「牧港橋」昭和 9 年 撮影/田辺泰  早稲田大学建築学科所蔵

(63)

PL .34 昭和 10 年 写真提供/澤岻勝雄氏

     写真の左側は宇地泊側で、茅葺きの屋敷や「 北の橋 」が確認できる。ニシヌハシ      写真右側は、仲座商店(二棟)と屋号、「比嘉小」(茅葺き)の屋敷。 PL .33 昭和 10 年 写真提供/澤岻勝雄氏

(64)

−5

8−

(65)

−5

9−

PL .36 「琉球風景 牧湊」昭和 10 年頃  沖縄県公文書館所蔵

(66)

−6

0−

PL .37 昭和 20 年

沖縄県公文書館所蔵

(67)

−6

1−

PL .38 昭和 20 年

沖縄県公文書館所蔵

(68)

−6

2−

PL .39 昭和 20 年

沖縄県公文書館所蔵

(69)

−6

3−

PL .40 昭和 20 年  月刊沖縄社『日本最後の戦い』1977 年発行

(70)

PL .42 昭和 23 年 撮影/宮城良雄  浦添市牧港自治会所蔵  

      牧港ポンプ場と牧港橋。写真中央付近は戦前の軽便鉄道跡。左側上部は嘉数高地(高台)、      右側上部の丘陵は浦添グスクで、突出した為朝岩も微かに確認できる。

PL .41 昭和 23 年 撮影/宮城良雄  浦添市牧港自治会所蔵 

(71)

PL .43 昭和 27 年 撮影/太宰好夫  浦添市立図書館沖縄学研究室所蔵

    写真左側の建物は牧港ポンプ場で、右側は牧港橋。牧港岩山の崖下から嘉数方面を撮影。

PL .44 昭和 27 年 撮影/太宰好夫  浦添市立図書館沖縄学研究室所蔵

(72)

PL .45 昭和 32 年 1957 年 沖縄タイムス社発行『新郷土地図 第 2 巻』より転載。     写真左側は牧港ポンプ場。中央から右側に牧港橋、入江、牧港岩山が確認できる。

PL .46 「牧港」昭和 36 年 撮影/山内良好

    1961 年 琉球政府発行『琉球のあゆみ 10・11 合併号』より転載。

(73)

PL .47 「牧港」昭和 30 年代 撮影/佐久田 繁  

    1965 年 月刊沖縄社発行『おきなわ今と昔』より転載。     軍道一号線から牧港岩山を撮影。

PL .48 昭和 40 年代 浦添市立図書館沖縄学研究室所蔵

(74)

PL .49 昭和 50 年頃  撮影/浦添市教育委員会

(75)
(76)

PL .51 昭和 50 年頃  撮影/浦添市教育委員会

    オーバーハング下のタンク墓。戦前まで並列墓が所在した場所で、墓所有者の存在を窺い 知ることができる。しかし、今回の調査では所有者はわからなかった。

PL .52 昭和 50 年頃  撮影/浦添市教育委員会

(77)

PL .53 昭和 50 年頃  撮影/浦添市教育委員会     横穴跡。今調査の 2 号横穴跡と思われる場所。

PL .54 昭和 50 年頃  撮影/浦添市教育委員会

(78)

PL .55 昭和 56 年  撮影/長間安彦 浦添市立図書館沖縄学研究室所蔵      牧港の入江風景。

PL .56 平成 7 年  撮影/浦添市教育委員会

(79)

参照

関連したドキュメント

<別記> 1.様式は添付の「事例報告様式」をご利用ください。 2.様式はワード形式(事例報告様式.doc」

状線整備事業のうち徳島東環状大橋(仮称)の基礎 図-8 打撃回数と打止時貫入量の計測対象とした鋼管矢板 で施工された.本橋は,吉野川の河口から 1.8km

旧Tacoma橋は落橋時に,ねじれフラッターの発現前にたわみ渦励振が発現していたことから,Fig.2

variants など検査会社の検査精度を調査した。 10 社中 9 社は胎 児分画について報告し、 10 社中 8 社が 13, 18, 21 トリソミーだ

大村市雄ヶ原黒岩墓地は平成 11 年( 1999 )に道路 の拡幅工事によって発見されたものである。発見の翌

PZTにアクセプターを添加した試料は、市販のPZT原料粉末(林化学工業㈱製

本報告書は、日本財団の 2016

本報告書は、日本財団の 2015